1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍によって日本の広島市も原子爆弾「リトルボーイ」が投下されました。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃・実戦使用となりました。
この核攻撃により当時の広島市の人口推定35万人の内、9万人から16万6千人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡したとされています。原爆投下後の入市被爆者も含め56万人が被爆したとされており、わずか3日後の1945年8月9日には、長崎市へも原子爆弾が投下されました。
8時16分、広島市細工町の上空約600mで「リトルボーイ」が炸裂しました。広島大学原爆放射線医学研究所の星正治博士による見解によれば、核爆発から100万分の1秒以内に、広島に降り注いだ中性子のおよそ90%が放出されました。
中性子は屋根瓦や壁などの物質に反応し、ガンマ線を発生させ、1986年の「広島原爆の放射線量再評価(DS86)」による検証によれば、爆心地から1キロ圏内には中性子・ガンマ線をあわせ、4グレイほどの放射線が降り注ぎました。4グレイの放射線は被爆した人間のおよそ50%を死に至らしめる、非常に強力なものです。
爆心地500m圏内では核爆発による閃光と衝撃波がほぼ同時に襲い、爆風によって大半の建築物は一瞬のうちに破壊され、木造建築はそのすべてが全壊しました。鉄骨入りレンガ・モルタル・石造で建てられた産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受け、一部の外壁を残して大破しました。爆心地付近を通過していた広島電鉄の路面電車は、炎上したまま遺骸を乗せ、慣性でしばらく走り続けました。
爆心地からわずか700m付近で脱線して黒焦げとなった状態で発見された被爆電車はのちに修復され、2023年現在も現役で稼働し平和学習に用いられています。屋外にいた者は大量の熱線と放射線を浴びて即死し、屋内にいた者は家屋の倒壊に巻き込まれ、閉じ込められたまま焼死しました。
原爆の投下が人類にとって核戦争の恐怖とその破壊力を象徴するものとなり、戦争や武力行使の影響を問い直す契機となったことは、よくご存じのことと思います。その後8月15日には終戦を迎えましたが、後遺症などの核兵器による被害は続きました。
原爆投下並びに太平洋戦争により亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、日本を守るために犠牲となられた英霊の皆様に深く感謝し、心からご冥福をお祈りいたします。
戦争の惨禍が二度と繰り返されないことを願い、平和への祈りを捧げるとともに、一日本国民として、世界の平和を願い、核兵器を二度と用いられないことを心から願っております。
2024.8.6
EWRS総合情報共有局(EGIC)
撮影 九州支部長(2024.8.3)