1945年8月9日 11時02分を最後に
平和を、未来の世界を生きる、すべての人へ。
1945年8月9日午前11時2分、アメリカ軍によって日本の長崎市に原子爆弾「ファットマン」が投下されました。これは、広島市への原子爆弾「リトルボーイ」に続く、二度目の都市に対する核攻撃・実戦使用となりました。この核攻撃により当時の長崎市の人口推定24万人の内、7万人から8万人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡したとされています。原爆投下後の入市被爆者も含め約15万人が被爆したとされており、広島に続くこの攻撃は、第二次世界大戦の終結に向けた決定的な瞬間となりました。
11時2分、長崎市の浦上地区の上空約500mで「ファットマン」が炸裂しました。最初の原子爆弾である広島原爆には64キログラムの高濃縮ウランが、長崎原爆には6キログラムのプルトニウムが含まれていたと推定されています。1986年の「長崎原爆の放射線量再評価(DS86)」による検証によれば、爆心地から1キロ圏内には中性子・ガンマ線をあわせ、2グレイから4グレイほどの放射線が降り注ぎました。4グレイの放射線は被爆した人間のおよそ50%を死に至らしめる、非常に強力なものです。爆心地500m圏内では核爆発による閃光と衝撃波がほぼ同時に襲い、爆風によって大半の建築物は一瞬のうちに破壊され、木造建築はそのすべてが全壊しました。鉄骨入りレンガ・モルタル・石造で建てられ、爆心地から約1.5km離れた場所にあった浦上天主堂は爆風と熱線により大きな被害を受けましたが、一部の壁が残っていたため、奇跡の鐘として知られています。
屋外にいた者は大量の熱線と放射線を浴びて即死し、屋内にいた者は家屋の倒壊に巻き込まれ、閉じ込められたまま焼死しました。また、爆心地から約700m付近で脱線して黒焦げとなった状態で発見された被爆電車は、長崎電気軌道1号系統電車で、この電車は、平和公園内に保存されており、被爆電車として公開されています。
原爆の投下が人類にとって核戦争の恐怖とその破壊力を象徴するものとなり、戦争や武力行使の影響を問い直す契機となったことは、よくご存じのことと思います。その後8月15日には終戦を迎えましたが、後遺症などの核兵器による被害は続きました。
原爆投下並びに太平洋戦争により亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、日本を守るために犠牲となられた英霊の皆様に深く感謝し、心からご冥福をお祈りいたします。戦争の惨禍が二度と繰り返されないことを願い、平和への祈りを捧げるとともに、一日本国民として、世界の平和を願い、核兵器を二度と用いられないことを心から願っています。
2024.8.9
EWRS総合情報共有局(EGIC)
画像:写真AC