はい、こんにちは。Katsu_M.です。今回はコチラ、書き溜めている記事になります。
前回の記事では、「知災クイズ」をやっていきました。
前回の記事:近況報告&Quiz
今回は台風10号が話題になっていたということで、中学理科レベルで台風について考えていきたいなと思います。気楽にいきましょう。
続きを読む →当団体では、夏季休業期間中の台風10号に対する臨時対応の振替休業として、下記の通り臨時休業期間を設けさせていただきます。
2024年9月8日(日)0時 ~ 9月12日(木)25時
※9月8日…全体休業日、9月9日~12日…一部休業日
なお、お問い合わせに関しましては、9月1日~9月7日および9月11日、9月13日以降の対応とさせていただきます。
9月7日以降のお問い合わせに関しましては、9月11日、または9月13日以降に対応させていただきます。ご理解・ご協力のほど、よろしくお願いいたします。
なお、9月11日(水)に予定されていました休業日については、9月18日(水)に振り替えさせていただきます。ご了承ください。
*9月休業日・・・9月8日~12日(臨時休業)、9月18日、20日、27日
1923年9月1日 11時58分頃、関東地方で非常に大きな地震がありました。
最大震度は現在の震度階級にして7と推定されており、現在の東京都、神奈川県、千葉県などで大きな揺れがあったとされています。当時の震度階級で最も高い震度6を、現在の埼玉県や東京都、神奈川県、山梨県で観測しました。
地震の規模を示すマグニチュードは7.9から8.1とされ、これは熊本地震や能登半島地震を超える非常に大きい規模の地震です。阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震の約8倍の規模です。この地震は相模トラフのプレート境界に沿って発生した海溝型地震とされています。
関東大地震は昼の12時前に発生したため、昼食の時間帯と重なったことから火災による被害が大きなものとなりました。東京や横浜を中心に広範囲にわたって火災が発生し、火災によって多くの建物や住宅が焼失、数十万人が家を失いました。火災による被害は犠牲者の約9割に上るとも言われています。
関東大地震では、関東の沿岸地域を中心に、地震後すぐに大津波が押し寄せました。わずか15分の間に7mを超える大津波が沿岸に押し寄せ、静岡県では最大で12mの非常に高い津波を観測しました。現在の基準では大津波警報が発表される、東日本大震災クラスの大津波です。東京湾や横浜港などの沿岸部では、津波によって港湾施設や船舶が破壊され、甚大な被害が生じました。
関東大地震とそれに伴う被害によって、190万人が被災し、10万5,000人あまりが死亡、または行方不明になったと推定されています。
関東大震災からの復興事業では、東京の市街地の大改造が行われ、道路の拡張、区画の整理といったインフラ整備が行われました。
政府の中央防災会議の想定によれば、マグニチュード7.3の都心南部直下地震が発生した場合、建物倒壊による死者は最大で約11000人に上り、火災を含めると最大で約23000人にまで上るとされています。
また、発災直後には都区部のおよそ5割が停電・断水し、軽油、ガソリン等の供給が困難になるとされています。
私たちはこの地震を忘れてはいけません。今後30年以内に首都直下地震が発生する確率は70%以上と言われています。
この地震から100年以上が経過した今、私たちにすべきことは何か、考えてみるべきでしょう。
というわけで今日から始まる新企画、記事です。
全職員で週2~3回更新を目指して頑張ります。いぇい。
最近はほんと暑いですよねぇ…。ってこれ『EGIC-Radio』#17.5 でもやったかもしれない。笑
ここ最近は編集に明け暮れる毎日です。編集(画像、映像、文章etc)結構忙しいですが、やりがいはありますね。このままいくといつか倒れるのでそろそろ落ち着きたいところですが。ちなみに今日(この記事書いてる日)に出す動画、まだできてません(最終的にはできたからヨシ)。
最近力を入れてるのは動画投稿です。今夏休みシーズンということで…そこがキモだなと思ったのですが、南海トラフ地震臨時情報が出てしまって…うん…って感じですが、大方予定通りに進んでいます。来月以降はまたいつも通り月3投稿に戻りますので、よろしくお願いしますね。
そしてEGIC-Gamesは収録する暇もなく8月も終盤戦。ほんとは8月中旬に撮る予定でした(理由は省略)。厳しいですねぇ…
というわけで今回私からはクイズを出そうと思います!WordPressの限界に挑戦(そっち?)。
答えは…(2ページへ)
EWRS総合情報共有局(EGIC)では2024年8月より新情報共有画像を導入します。
※なおそれに合わせ、情報共有画像等を含むガイドラインを制作いたしました。そちらもご確認ください。
①視認性向上
新カラースキーム(EGIC Color Scheme)を導入。
パッと見で情報種類が分かるようにし、色覚多様性に配慮したカラーリングを意識。
②スケール表示の導入
大きく震度・警戒レベルを記載。「3」「6+」など、見ただけで大きさがわかります。
③左右でのバランス
左側画面に文章による表示、右側画面をスケールやマークによる表示という形で区別しています。
④英語表記とのバランス
以前の表記では英語表記が多く、日本語での表示内容が見にくいという状況になりがちでした。
この点を改善し、英語表記を維持しつつ、日本語表記を大きくする形で改善しました。
地震・津波・気象・避難・火山・鉄道・国民保護に関する情報について、情報共有画像を使用してお届けしてまいります。
それ以外の情報については現時点では文章のみでの提供を予定しております。
なお、情報共有画像のガイドラインについては以下をご確認ください。
https://ewrs.jp/guideline/
2024年度後期、EGICでは、よりわかりやすく・目的に沿った情報共有を行うことを目指し情報共有システムを改善してまいります。
その一環として本日より団体内システム「Clyzer」を導入いたしました。
素早く・正確な情報共有を行うため、新システム「Clyzer」を導入しました。現在は一部の地震情報のみの対応となっておりますが、今後更新や機能追加を行うことを予定しております。完全手動時と比較して地震情報の共有が数十秒~数分程度早くなります(気象庁の発表した情報を利用する点は変更ありません)。
※Clyzer は情報共有の円滑化を図った団体内システムです。
新ロゴマークの導入に合わせ、現在EGICでは新情報共有画像及び新カラーリングを制作しております。これまでと色合いを合わせつつ、見やすい色を目指して制作しております。
また、情報共有画像についてはすべての人に見やすい・わかりやすいデザインを目指して現在制作中です(今後、皆様へのアンケートを行わせていただく予定です。お時間のある方はご協力いただけますと幸いです)。
現在EGICで行っているライブ放送「EGIC-LIVE」のアーカイブ動画について、2024年6月ぶりにサムネイルが復活します。現在のEGIC-LIVEのサムネイルの構成を使用し、最新のカラーリング(前述)を用いて制作いたしました。
今後とも当団体をどうぞよろしくお願いいたします。
79年前の今日。
1945年8月15日、昭和天皇による「玉音放送」が放送され、日本の最後の戦争が終わり、ポツダム宣言の受諾により、日本は無条件降伏しました。終戦直後、日本は苦しい中、民主主義国家としての道を歩み、その想像を絶する苦労と努力により、今、私たちは平和な世を生きています。
私たちはこの戦争の記憶を、風化させず、永遠に語り継ぐ必要があります。国際社会の一員として、唯一の戦争被爆国として、二度と戦争の惨禍を繰り返さず、平和な未来を受け継ぐ責任を果たしていく必要があります。私たちが作り上げてきた平和を、壊さず、広げなければなりません。これ以上、原爆で、戦争で何かを失うことがあってはならない。
しかし決して、すべての人が平和な世を生きているわけではないという自覚も、これからの社会を生きる私たちには必要でしょう。
繰り返しにはなりますが、原爆投下並びに太平洋戦争により亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、日本を守るために犠牲となられた英霊の皆様に深く感謝し、心からご冥福をお祈りいたします。戦争の惨禍が二度と繰り返されないことを願い、平和への祈りを捧げるとともに、一日本国民として、世界の平和を願い、核兵器を二度と用いられないことを心から願っています。
平和のバトンを、未来を生きる人へ。
2024.8.15
EWRS総合情報共有局(EGIC)
情報共有が約2時間ほど遅れておりました。
深くお詫び申し上げますとともに、今後の再発防止に努めてまいります。
1945年8月9日午前11時2分、アメリカ軍によって日本の長崎市に原子爆弾「ファットマン」が投下されました。これは、広島市への原子爆弾「リトルボーイ」に続く、二度目の都市に対する核攻撃・実戦使用となりました。この核攻撃により当時の長崎市の人口推定24万人の内、7万人から8万人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡したとされています。原爆投下後の入市被爆者も含め約15万人が被爆したとされており、広島に続くこの攻撃は、第二次世界大戦の終結に向けた決定的な瞬間となりました。
11時2分、長崎市の浦上地区の上空約500mで「ファットマン」が炸裂しました。最初の原子爆弾である広島原爆には64キログラムの高濃縮ウランが、長崎原爆には6キログラムのプルトニウムが含まれていたと推定されています。1986年の「長崎原爆の放射線量再評価(DS86)」による検証によれば、爆心地から1キロ圏内には中性子・ガンマ線をあわせ、2グレイから4グレイほどの放射線が降り注ぎました。4グレイの放射線は被爆した人間のおよそ50%を死に至らしめる、非常に強力なものです。爆心地500m圏内では核爆発による閃光と衝撃波がほぼ同時に襲い、爆風によって大半の建築物は一瞬のうちに破壊され、木造建築はそのすべてが全壊しました。鉄骨入りレンガ・モルタル・石造で建てられ、爆心地から約1.5km離れた場所にあった浦上天主堂は爆風と熱線により大きな被害を受けましたが、一部の壁が残っていたため、奇跡の鐘として知られています。
屋外にいた者は大量の熱線と放射線を浴びて即死し、屋内にいた者は家屋の倒壊に巻き込まれ、閉じ込められたまま焼死しました。また、爆心地から約700m付近で脱線して黒焦げとなった状態で発見された被爆電車は、長崎電気軌道1号系統電車で、この電車は、平和公園内に保存されており、被爆電車として公開されています。
原爆の投下が人類にとって核戦争の恐怖とその破壊力を象徴するものとなり、戦争や武力行使の影響を問い直す契機となったことは、よくご存じのことと思います。その後8月15日には終戦を迎えましたが、後遺症などの核兵器による被害は続きました。
原爆投下並びに太平洋戦争により亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、日本を守るために犠牲となられた英霊の皆様に深く感謝し、心からご冥福をお祈りいたします。戦争の惨禍が二度と繰り返されないことを願い、平和への祈りを捧げるとともに、一日本国民として、世界の平和を願い、核兵器を二度と用いられないことを心から願っています。
2024.8.9
EWRS総合情報共有局(EGIC)
画像:写真AC
1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍によって日本の広島市も原子爆弾「リトルボーイ」が投下されました。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃・実戦使用となりました。
この核攻撃により当時の広島市の人口推定35万人の内、9万人から16万6千人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡したとされています。原爆投下後の入市被爆者も含め56万人が被爆したとされており、わずか3日後の1945年8月9日には、長崎市へも原子爆弾が投下されました。
8時16分、広島市細工町の上空約600mで「リトルボーイ」が炸裂しました。広島大学原爆放射線医学研究所の星正治博士による見解によれば、核爆発から100万分の1秒以内に、広島に降り注いだ中性子のおよそ90%が放出されました。
中性子は屋根瓦や壁などの物質に反応し、ガンマ線を発生させ、1986年の「広島原爆の放射線量再評価(DS86)」による検証によれば、爆心地から1キロ圏内には中性子・ガンマ線をあわせ、4グレイほどの放射線が降り注ぎました。4グレイの放射線は被爆した人間のおよそ50%を死に至らしめる、非常に強力なものです。
爆心地500m圏内では核爆発による閃光と衝撃波がほぼ同時に襲い、爆風によって大半の建築物は一瞬のうちに破壊され、木造建築はそのすべてが全壊しました。鉄骨入りレンガ・モルタル・石造で建てられた産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受け、一部の外壁を残して大破しました。爆心地付近を通過していた広島電鉄の路面電車は、炎上したまま遺骸を乗せ、慣性でしばらく走り続けました。
爆心地からわずか700m付近で脱線して黒焦げとなった状態で発見された被爆電車はのちに修復され、2023年現在も現役で稼働し平和学習に用いられています。屋外にいた者は大量の熱線と放射線を浴びて即死し、屋内にいた者は家屋の倒壊に巻き込まれ、閉じ込められたまま焼死しました。
原爆の投下が人類にとって核戦争の恐怖とその破壊力を象徴するものとなり、戦争や武力行使の影響を問い直す契機となったことは、よくご存じのことと思います。その後8月15日には終戦を迎えましたが、後遺症などの核兵器による被害は続きました。
原爆投下並びに太平洋戦争により亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、日本を守るために犠牲となられた英霊の皆様に深く感謝し、心からご冥福をお祈りいたします。
戦争の惨禍が二度と繰り返されないことを願い、平和への祈りを捧げるとともに、一日本国民として、世界の平和を願い、核兵器を二度と用いられないことを心から願っております。
2024.8.6
EWRS総合情報共有局(EGIC)
撮影 九州支部長(2024.8.3)