東北地方太平洋沖地震から14年 あの日を忘れない

東日本大震災から14年

東北地方太平洋沖地震から 14年 が経過しました。
命を失われた方のご冥福をお祈りします。被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

2011年3月11日 14時46分18.1秒

2011年3月11日 14時46分18.1秒、三陸沖を震源とする最大震度7マグニチュード9.0(USGS:9.1)の、海溝型・連動型の超巨大地震、「東北地方太平洋沖地震」がありました。

この地震では津波警報(大津波)が発表され、予想以上の津波が実際に押し寄せ、最大遡上高は40.1mと確認されています。

この地震によって耐震や津波への対応に目を向けられ、政府の対応や津波情報、テレビ放送の内容も変化しました。

M9.0は、1923年に発生した関東地震の約16倍、1995年に発生した兵庫県南部地震の約1450倍のエネルギーに相当します。

津波情報の過小評価とその後の推移

気象庁はM7.9という当初の推定に基づき、14時49分、岩手、宮城、福島県の沿岸に津波警報(大津波)、全国の太平洋沿岸などに津波警報などを発表し、津波の予想高さを宮城県6 m、岩手県と福島県で3 mと発表しました。

しかし、実際の津波の高さはこれを大きく上回ることとなりました。
15時には岩手県沖の海底水圧計で5 mの津波が観測されましたが、GPS波浪計、検潮所などで高い津波を観測した後の、15時14分と30分に津波情報が更新されました。

釜石沖では12分には沿岸で10 m以上の高さになるとされる値を確認しましたが、14分の更新では10 m以上予想は宮城県のみで、岩手、福島県では6mの予想でした

30分に岩手県から千葉県九十九里・外房まで予想高さが10 m以上になったものの、すでに、三陸沿岸には津波が襲来していました

翌3時20分までに太平洋沿岸などに津波警報(大津波)が、他にも津波警報・注意報が発表されました。

津波警報等が全て解除されたのは、13日17時58分となりました。

東北地方太平洋沖地震の余震活動

余震活動も極めて活発でした。

本震から1時間足らずの間にM7以上の強い地震が立て続けに3回発生し、このうち15時15分には茨城県沖を震源とするM7.6の最大余震が発生し、茨城県鉾田市当間で震度6強を観測しました。

本震の直後、東北大学地震・噴火予知研究観測センターが設置していた地震計の3割が破壊された上、通信回線が途絶し、余震の観測データを受け取れなくなりました。それによって、気象庁が発する地震情報や緊急地震速報に支障が生じる事態となりました

同年4月7日には宮城県沖を震源とするM7.2最大震度6強の余震が発生し4人が死亡、11日には福島県浜通りを震源とするM7.0最大震度6弱の福島県浜通り地震が発生、4人が死亡しました。

余震活動は活発に続き、2012年3月14日には千葉県東方沖を震源とする、M6.1最大震度5強の余震が発生、1人が死亡、12月7日には三陸沖を震源とするM7.3、最大震度5弱の余震が発生し最大98 cmの津波を観測、3人が死亡、2016年11月22日には福島県沖を震源とするM7.4、最大震度5弱の余震が発生し最大1.4mの津波を観測、2021年2月13日には福島県沖を震源とするM7.3、最大震度6強の余震が発生し1人が死亡しました。

2011年7月10日、2013年10月26日、2014年7月12日にもM7以上の余震が発生しています。

2021年、気象庁はこの地震の震源域での地震を余震と表現することを取りやめました。

福島第一原子力発電所事故

この地震とそれに伴う津波により、東京電力 福島第一原子力発電所で、福島第一原子力発電所事故が発生しました。

1986年4月のチェルノブイリ原子力発電所事故以来、最も深刻な原子力事故となり、国際原子力事象評価尺度(INES)の7段階レベルのうち、レベル5に分類されたものの、のちに最高レベル7(深刻な事故)に引き上げられました。

レベル7に分類されている事故はチェルノブイリ原発事故と福島第一原発事故の2つのみです。警戒区域外でも、放射性物質漏れによる汚染が発生し、原発の稼働に疑問をもつ人が増えたほか、国内での電力危機なども発生し、日本中に大きな混乱と被害をもたらしました。

今度こそ、誰一人取り残さない。

私たちはこの超巨大地震を、東日本大震災を、絶対に忘れてはいけません。

予想が当てにならない事態が、既に発生したことがあるんです。

戦後最大の災害、首都直下地震や南海トラフ巨大地震も、いつ発生するかわかりません。

何十年後かも、何年後かも、今すぐかもしれません。

災害が起こってから、命を失ってから、大切な人を失ってからでは、遅いんです。

助かる命が、助かるように。自分の身を、守れるように。

明日を過ごすために。大切な人に会うために。約束を果たすために。夢を叶えるために。

いつか笑って過ごすために。今すぐ、対策をしましょう。

この大震災を絶対に忘れることのないように、私たちは今後も知災活動に全力で取り組みます。

楽曲:花は咲く・群青~あの日を忘れない~

今年3月11日で、東北地方太平洋沖地震から 14年 が経過します。

今日は合唱曲「群青」、そして「花は咲く」をお伝えします。

群青の背景 – 3月11日。

合唱曲として知られている「群青」は、2013年、南相馬市立小高中学校平成24年度卒業生と同校の音楽教諭であった小田美樹先生、そして作曲・編曲家の信長貴富さんによって作られました。

あの日、彼らは中学1年生で、3年生の卒業式でした。

津波によって甚大な被害を受け、福島第一原発事故によって避難を余儀なくされ、1年生のうちのほとんどが全国へ散り散りとなりました。

群青の背景 – 生まれるまで。

鹿島区へ移転した小高中学校。

2年生へ進級したわずか数名の生徒は、不安や心の痛みによって歌うことが難しくなりました。

彼らの同級生へ綴った日記や他愛もない会話を、小田先生は少しづつ書き留めるようになり、「群青」の歌詞が出来ました。

そして彼らの卒業式では、「群青―平成24年度 小高中学校卒業生に捧ぐ」を合唱しました。

「Harmony for JAPAN 2013」による披露ののち、編曲されて今の「群青」が生まれました。

花は咲く。震災支援プロジェクト。

「花は咲く」は、2011年3月11日に東日本大震災の被災地と被災者の復興支援を目的として制作されたチャリティーソングであり、NHKが震災支援プロジェクトのテーマソングとして使用しています。

作詞は宮城県仙台市出身の岩井俊二さん、作曲・編曲は同じく同市出身の菅野よう子さんが手掛けています。この曲は震災で亡くなった人々の視点から作られました。

NHK東日本大震災プロジェクト

NHK東日本大震災プロジェクトは、2011年度から展開されているNHKのキャンペーンプロジェクトで、東日本大震災の被災者や被災地への支援を目的としているものです。

このプロジェクトは、東北地方太平洋沖地震による津波や東京電力福島第一原発事故による被害からの東北地方の復興を促進し、震災がもたらした被害や影響を検証し、今後の防災につなげることも目的としています。

プロジェクトは様々な番組を通じて実施され、キャッチフレーズには「明日へ-支えあおう-」が採用されています。

プロジェクトのロゴマークは、初期には3本の糸が絡み合うようなデザインが使用され、後に「震災から1年」を含む円の中で双葉が開いたイラストに変更されました。

この楽曲の印税は全額NHK厚生文化事業団を通じて被災地の自治体に寄付されます。英語版も制作され、イル・ディーヴォさんが歌唱しています。菅野よう子さんの提案により、2015年に歌詞の一部が変更されました。この楽曲はシングルとして発売され、フライングドッグによる初のチャリティー楽曲となりました。

失ったものは数えきれないけど、いつか、「花は咲く」。

あの日から季節が過ぎていきました。明日で、あの震災から14年です。

失ったものは、数えきれない。
帰る家を。生まれ育ったあのまちを。大切な人を。何事もない、日々の暮らしを…

それでも、いつか、「花は咲く」と信じて。

私たちは後世のために、この事実を残し続けなければならないのです。

2011年3月11日。
あの日、あの時。私たちの生活は大きく変わりました。

津波警報(大津波)」は、「大津波警報」になりました。
テレビも、ラジオも、一刻も早く逃げて、命を守るように伝えるようになりました

あの日のあの大地震が、大津波が、私たちを変えました。

震災の教訓は、多くあるはずです。

私たちにできることは、過去の災害を教訓に、命を守るために、対策を講じること
災害が起こってからでは、命を失ってからでは、大切な人を失ってからでは、遅いんです

今、この投稿を見てくださっている、あなた。
対策は、できていますか。対策できていない方。行動すべき時は、今です。

大地震も大津波も、何年後、何十年後なのか。それとも、すぐなのか。明日なのか。それはだれにもわかりません。

明日を過ごすために。大切な人に会うために。

約束を果たすために。夢を叶えるために。災害に遭っても、いつか笑って過ごすために。

私たちはずっと対策し続ける必要があり、この震災を忘れてはいけません。

明日で、東日本大震災から14年を迎えます。

北海道・三陸沖後発地震注意情報:前震活動の教訓

今年3月11日で、東北地方太平洋沖地震から 14年 が経過します。

「北海道・三陸沖後発地震注意情報」を知っていますか?多くの人が知らない割に、重要な情報なのです。

北海道・三陸沖後発地震注意情報

「北海道・三陸沖後発地震注意情報」は、北海道の根室沖から東北地方の三陸沖の巨大地震の想定震源域やその周辺でM7.0以上の地震が発生し、大規模地震の発生可能性が平常時より相対的に高まっている際に発表される情報です。

しかし、後発地震が発生しない場合の方が多いこと、その一方、防災対応を呼びかける1週間が経過した後も大規模地震が発生する可能性があることなど、極めて不確実性が高い情報となっています。

では、なぜ発表するのか?

しかし、この情報を気象庁が発表するのは、過去の大規模地震が後発地震として発生している事例があり、不確実性が高くとも被害軽減を図ることができると考えられるからです。

大規模地震が後発地震として発生した例として、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震が挙げられます。

突発的に発生する地震への日頃からの備えを前提とした上で必要な防災対応を呼びかけ、より多くの人命を守るための取り組みだと説明しています。

ただ、一般的に大きな地震が発生すると、地殻にひずみが生じ、そのひずみを解消するために、さらに地震が発生する余震が発生することがあるため、大きな地震のあとには同程度の地震には必ず注意する必要があるのです。

津波てんでんこ:多くの命を救った、一言の防災標語

今年3月11日で、東北地方太平洋沖地震から 14年 が経過します。

みなさんは「釜石の奇跡」を知っていますか?釜石の奇跡と呼ばれる、防災訓練を受けていた、児童・生徒たちが生存した出来事です。

しかし、この釜石の奇跡は本当に「奇跡」と言えるのでしょうか。

大津波警報の発表時は…

大津波警報発表時は、すぐに3mを超える巨大津波が押し寄せます。「津波てんでんこ」の精神で、速やかに高台へ逃げ、命を守ってください。

すぐに海から離れ、高台や津波避難ビルへ避難してください。

多くの場合、津波は迫ってきています
周囲の人に大きな声で避難を叫びながら、すぐに避難してください。

戸惑う余裕はありません。過去にない大きさの津波が迫っています。

津波てんでんこ とは?

「津波てんでんこ」は、薄情なようではあっても、「てんでんばらばらに急いで早く逃げよ」という、津波から逃れるための教えです。

東日本大震災以前から、釜石市には「命てんでんこ」「てんでんこ」などといった言葉が残されていました。三陸海岸で津波避難の標語に転化したのは、明治三陸地震の津波の頃からと言われています。

決して間違えてはならないのは、「周りの人間を見捨てろというわけではないこと。

あらかじめどう行動をとるか決めておき、離れ離れになった家族を探したり、とっさの判断に迷ったりして逃げ遅れるのを防ぐ。これが「津波てんでんこ」です。

利己主義なのでは?

利己主義ではなく、ばらばらに自分だけでも逃げる、その意志を共有することで互いを探して共倒れすることを防ぐための約束事。
あなたの命を守るため、わたしの命を守るため、また一緒に会うために、「今はばらばらになってでも生きて逃げる」。という精神なのです。

「釜石の奇跡」だったのか?

東日本大震災においても、「釜石の出来事」と呼ばれる、「津波てんでんこ」を標語に防災訓練を受けていた釜石市内の小中学生らのうち、当日学校に登校していた生徒全員が生存する、という出来事がありました。

鵜住居小学校では、停電と非常扉の閉鎖により、防災無線が聞こえづらい状況の中、教務主任が児童を校舎3階に避難させていました。

しかし被害状況から、その後、一次避難場所である「ございしょの里」への避難、さらに裏山の崩壊と地域住民の助言を受け、二次避難場所の「やまざきデイケアサービス」へ釜石東中学校の生徒と共に避難しました。

これは彼らの防災訓練の成果なのです。

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